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微雑音
インド紀行⑤
2019-02-16
インド紀行⑤
インド3日目はベナレスに宿泊した。そして、翌朝現地2月5日、ベナレスにてガンジス河の御来光を参拝したのです。
ベナレス(ヴァーラーナシー)は、ガンジス河沿いにある、ヒンドゥー教の一大聖地として、インド国内外から多くの信者、巡礼者、観光客を集めるインド最大の宗教都市です。 そして、この街の郊外に、釈尊が初めて説法を行ったサールナート(鹿野苑)があるのです。このベナレスで最も有名なのが、ガンジス河の岸辺に連なる「ガート」と呼ばれる沐浴と火葬のための神聖な場所で、そこは河へ向かって階段状になっています。インドの多くの人々は、生涯に必ず一度はここを訪れ、ガンジス河で日の出と共に沐浴し、自身の穢れを流すわけです。私たちが訪れた日も、多くの人が沐浴をしていました。さらに、亡くなるとここで火葬され、遺骨をガンジス河に流します。ガンジスに遺骨を流すと、輪廻から解脱すると言われています。ガンジス河では、ボートに乗り、河の中からガートを見学しました。また火葬そのものには出会いませんでしたが、日常的にここで火葬も行われているのです。
その後、釈尊が初めて説法を行った鹿野苑跡(サールナート)を参拝し、再びお勤めをしたのです。
釈尊は、ブッダガヤで悟りを開き、しばらく悟りの境地を味わった後、バラモンの最高神である梵天から説法することを勧められたと言われます。そうして、元の修行仲間がいるサールナートまで来て、初めての説法をしたのです。これを初転法輪と言います。ここサールナートと、成道されたブッダガヤはおよそ200キロも離れているのですが、かつての苦行仲間がいるためにやってきたのです。
私たちは、サールナートと博物館に行った後、この日再びベナレスからデリーでまで空路で移動しました。いよいよ翌日がインド最終日です。
インド3日目はベナレスに宿泊した。そして、翌朝現地2月5日、ベナレスにてガンジス河の御来光を参拝したのです。
ベナレス(ヴァーラーナシー)は、ガンジス河沿いにある、ヒンドゥー教の一大聖地として、インド国内外から多くの信者、巡礼者、観光客を集めるインド最大の宗教都市です。 そして、この街の郊外に、釈尊が初めて説法を行ったサールナート(鹿野苑)があるのです。このベナレスで最も有名なのが、ガンジス河の岸辺に連なる「ガート」と呼ばれる沐浴と火葬のための神聖な場所で、そこは河へ向かって階段状になっています。インドの多くの人々は、生涯に必ず一度はここを訪れ、ガンジス河で日の出と共に沐浴し、自身の穢れを流すわけです。私たちが訪れた日も、多くの人が沐浴をしていました。さらに、亡くなるとここで火葬され、遺骨をガンジス河に流します。ガンジスに遺骨を流すと、輪廻から解脱すると言われています。ガンジス河では、ボートに乗り、河の中からガートを見学しました。また火葬そのものには出会いませんでしたが、日常的にここで火葬も行われているのです。
その後、釈尊が初めて説法を行った鹿野苑跡(サールナート)を参拝し、再びお勤めをしたのです。
釈尊は、ブッダガヤで悟りを開き、しばらく悟りの境地を味わった後、バラモンの最高神である梵天から説法することを勧められたと言われます。そうして、元の修行仲間がいるサールナートまで来て、初めての説法をしたのです。これを初転法輪と言います。ここサールナートと、成道されたブッダガヤはおよそ200キロも離れているのですが、かつての苦行仲間がいるためにやってきたのです。
私たちは、サールナートと博物館に行った後、この日再びベナレスからデリーでまで空路で移動しました。いよいよ翌日がインド最終日です。
インド紀行④
2019-02-15
インド紀行④
朝の霊鷲山もそう思いましたが、ブッダガヤも「ついに来たぁ!!!」という感じでした。
ブッダガヤは言うまでもなく、釈尊の四大仏跡の一つです。今回の旅行は、日程の関係で、四大仏跡のうち、誕生地であるルンビニーと、涅槃の地であるサールナートには行けませんでしたが、いつかは参拝したいと思います。
さて、ブッダガヤは、お釈迦様が仏陀になられた(成道)の場所です。したがって、全仏教徒の聖地であるのです。
釈迦族の太子であったシッダールタは、29歳の時出家し、6年の修行の後、このブッダガヤを流れる尼蓮禅河(ナイランジャナー河)で沐浴をします。その時、苦行でいまにも倒れそうなシッダールタに乳がゆをお与えなされたのが、この河の近くに住む長者の娘であったスジャータです。
乳がゆをお飲みなられたシッダールタは体力と気力を取り戻し、菩提樹の下に座り続け、ついに悟りを開かれたのです。時に釈尊35歳。12月8日の明け方、東の空には金星が輝いていたとされます。釈迦族の太子であったシッダールタが悟りを開かれ、以後釈迦牟尼世尊(略して釈尊)と言われるのです。
お釈迦様の話が長くなりました。ブッダガヤは全仏教徒の聖地です。私たちが参拝した折も、スリランカの仏教徒、チベットの僧達がたくさんいました。チベット僧たちは、ずっと五体投地の礼拝を繰り返しておられました。
私たちは、菩提樹のもとで読経をし、その後スジャータの村へ行き、そして遠く離れたベナレスへとバス移動をしたのでした。
朝の霊鷲山もそう思いましたが、ブッダガヤも「ついに来たぁ!!!」という感じでした。
ブッダガヤは言うまでもなく、釈尊の四大仏跡の一つです。今回の旅行は、日程の関係で、四大仏跡のうち、誕生地であるルンビニーと、涅槃の地であるサールナートには行けませんでしたが、いつかは参拝したいと思います。
さて、ブッダガヤは、お釈迦様が仏陀になられた(成道)の場所です。したがって、全仏教徒の聖地であるのです。
釈迦族の太子であったシッダールタは、29歳の時出家し、6年の修行の後、このブッダガヤを流れる尼蓮禅河(ナイランジャナー河)で沐浴をします。その時、苦行でいまにも倒れそうなシッダールタに乳がゆをお与えなされたのが、この河の近くに住む長者の娘であったスジャータです。
乳がゆをお飲みなられたシッダールタは体力と気力を取り戻し、菩提樹の下に座り続け、ついに悟りを開かれたのです。時に釈尊35歳。12月8日の明け方、東の空には金星が輝いていたとされます。釈迦族の太子であったシッダールタが悟りを開かれ、以後釈迦牟尼世尊(略して釈尊)と言われるのです。
お釈迦様の話が長くなりました。ブッダガヤは全仏教徒の聖地です。私たちが参拝した折も、スリランカの仏教徒、チベットの僧達がたくさんいました。チベット僧たちは、ずっと五体投地の礼拝を繰り返しておられました。
私たちは、菩提樹のもとで読経をし、その後スジャータの村へ行き、そして遠く離れたベナレスへとバス移動をしたのでした。
インド紀行③
2019-02-13
インド紀行③
現地2月4日はインド3日目ラージギルです。2日目にデリーからパトナへ空路で移動し、その後、バスでここラージギルまで移動し宿泊しました。
この日はまず、朝5時半にホテルを出発し、仏陀となられたお釈迦様が、無量寿経や観無量寿経、法華経をはじめとする大乗経典を説いたと言われる、「霊鷲山」の参拝です。「霊鷲山」をはじめとするこの一帯は、古代インドのマガタ国の首都で王舎城と言われました。その王舎城の郊外にあるのが「霊鷲山」です。
「仏説無量寿経」の冒頭にはこうあります。
「われ聞きたてまつりき、かくのごとく。ひと時、仏、王舎城耆闍崛山のうちに住したまひき。大比丘の衆、万二千人と倶なりき。」(浄土真宗聖典註釈版三頁)
この「耆闍崛山」(ぎしゃくっせん)というのが霊鷲山の正式な名称です。おそらく釈尊も拝まれたでろう霊鷲山からの御来光は格別でした。そして、皆で当然のごとく頂上の礼拝所でお勤めをしたのです。
その後ホテルで朝食を摂り、竹林精舎跡や昨日行けなかったナーランダ仏教大学跡等を参拝し、再びバスで3時間ほど移動し、お釈迦様成道の地であるブッダガヤに入ったのでした。
現地2月4日はインド3日目ラージギルです。2日目にデリーからパトナへ空路で移動し、その後、バスでここラージギルまで移動し宿泊しました。
この日はまず、朝5時半にホテルを出発し、仏陀となられたお釈迦様が、無量寿経や観無量寿経、法華経をはじめとする大乗経典を説いたと言われる、「霊鷲山」の参拝です。「霊鷲山」をはじめとするこの一帯は、古代インドのマガタ国の首都で王舎城と言われました。その王舎城の郊外にあるのが「霊鷲山」です。
「仏説無量寿経」の冒頭にはこうあります。
「われ聞きたてまつりき、かくのごとく。ひと時、仏、王舎城耆闍崛山のうちに住したまひき。大比丘の衆、万二千人と倶なりき。」(浄土真宗聖典註釈版三頁)
この「耆闍崛山」(ぎしゃくっせん)というのが霊鷲山の正式な名称です。おそらく釈尊も拝まれたでろう霊鷲山からの御来光は格別でした。そして、皆で当然のごとく頂上の礼拝所でお勤めをしたのです。
その後ホテルで朝食を摂り、竹林精舎跡や昨日行けなかったナーランダ仏教大学跡等を参拝し、再びバスで3時間ほど移動し、お釈迦様成道の地であるブッダガヤに入ったのでした。
インド紀行②
2019-02-13
「インド巡礼の旅」②
インド旅行2日目。日本とインドの時差は、インドがマイナス3時間半です。したがって、インドに着いたのは、インド時間では12時前だったのですが、日本時間では深夜3時半頃だったと思います。その時間から、ホテルに移動し、翌朝は7時朝食、8時ホテル出発でした。この日も再び、インドの国内線でデリーからパトナーという町へ移動です。
インドでの食事は、朝昼晩とほぼほぼカレーのバイキングでしたが、これが意外と美味しく、特にナンにカレーをつけていただくのが美味しいと思いました。また、ラッスィーというインドの飲むヨーグルトと、有名なチャイが大変美味しかったのです。
デリーからパトナーまでの飛行機の移動中、事前に、天候次第で見えるかもと言われていたのが、あのヒマラヤ山脈です。デリー出発時は、霧で曇っていたのですが、飛行機が雲の上に出てまもなく、遙か先に白く雪をかぶった山塊群が見えてきまし。やったー!ヒマラヤ山脈が見えた!というまことに感動の景色でした。1枚目の写真がそうです。白いのは雲ではありません、実際肉眼ではもっと大きく見えるのですが、確かに山脈だったのです。エベレストも見えていたかも???
パトナー到着後は、道も渋滞しており、結局この日も移動のみで一日が終わりました。しかし、このバス移動自体が、十分インドを満喫させてくれたのでした。
インド旅行2日目。日本とインドの時差は、インドがマイナス3時間半です。したがって、インドに着いたのは、インド時間では12時前だったのですが、日本時間では深夜3時半頃だったと思います。その時間から、ホテルに移動し、翌朝は7時朝食、8時ホテル出発でした。この日も再び、インドの国内線でデリーからパトナーという町へ移動です。
インドでの食事は、朝昼晩とほぼほぼカレーのバイキングでしたが、これが意外と美味しく、特にナンにカレーをつけていただくのが美味しいと思いました。また、ラッスィーというインドの飲むヨーグルトと、有名なチャイが大変美味しかったのです。
デリーからパトナーまでの飛行機の移動中、事前に、天候次第で見えるかもと言われていたのが、あのヒマラヤ山脈です。デリー出発時は、霧で曇っていたのですが、飛行機が雲の上に出てまもなく、遙か先に白く雪をかぶった山塊群が見えてきまし。やったー!ヒマラヤ山脈が見えた!というまことに感動の景色でした。1枚目の写真がそうです。白いのは雲ではありません、実際肉眼ではもっと大きく見えるのですが、確かに山脈だったのです。エベレストも見えていたかも???
パトナー到着後は、道も渋滞しており、結局この日も移動のみで一日が終わりました。しかし、このバス移動自体が、十分インドを満喫させてくれたのでした。
インド紀行①
2019-02-12
「インド巡礼の旅」
今年2月2日から7日まで、当山住職は、念願であったインドに初めて行きました。2日~7日と言っても、2日と7日は機中泊のため、インド滞在はわずか4日間という短かさですが、インドは何もかもが驚きの連続でしたので紀行文めいたものにしてアップすることにしました。
今年2月2日から7日まで、当山住職は、念願であったインドに初めて行きました。2日~7日と言っても、2日と7日は機中泊のため、インド滞在はわずか4日間という短かさですが、インドは何もかもが驚きの連続でしたので紀行文めいたものにしてアップすることにしました。
インドは言うまでもなく、仏教発祥の地であり、釈尊が90年の生涯を過ごされた地です。私たち仏教徒にとって、インドの数々の仏跡に行くことは、単なる観光ではなく、まさに「聖地巡礼」と言えるのです。
なお、この旅行はトラベルサライ社(株)による「インド仏跡巡拝の旅~釈尊三大聖地とタージ・マハール」という名称のツアーでした。トラベルサライ社は、インドの仏跡参拝や東南アジアの名所旧跡観光を中心に手掛ける旅行社です。
なお、この旅行はトラベルサライ社(株)による「インド仏跡巡拝の旅~釈尊三大聖地とタージ・マハール」という名称のツアーでした。トラベルサライ社は、インドの仏跡参拝や東南アジアの名所旧跡観光を中心に手掛ける旅行社です。
さて、今回の旅行は、先に述べたとおり、釈尊の三大仏跡とタージ・マハールに行く旅でした。飛行機はすべて「インド航空」。2月2日、関西国際空港から、予定より約1時間遅れて、インド、デリーへ飛び立ちました。デリーまで約12時間。途中、香港を経由し、香港からも多くのお客を乗せてインド、デリーへ向かいました。
インド紀行②へ続く。